インプレオって

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IMPLEO STORY 第一章「マイカンパニーからアワーカンパニーへ。」

インプレオSOHO時代

2001年5月、有限会社インプレオを一人で設立し、自宅居室をSOHOとして数人の在宅ワーカーをネットワーキングする形で仕事を始めた。フリーランスのライター、翻訳者として働いていたけれど、フリーランスの心細さや先行き不安感があったこと、そして周囲にいた潜在的キャリア志向の専業育児ママとワークシェアリングしたかったことが起業のきっかけであった。

業務内容は、それまで一人で請け負ってきた実務翻訳と、あるテレビ局の新番組立上げと共に始まった、番組ホームページのWebディレクター業務をメインに据えた。しかし、その番組を通じて、デジタルアートの面白さに開眼。また、ホームページの記事のひとつになればと思って始めた、番組出演者への“突撃インタビュー”が好評を博し、幅広い人脈も出来てきた。2001年12月には、たまたま来日したフランス人アーチストグループのエージェントを引き受け、数年後には大手商社とのライセンス契約にこぎつけることができた。この縁で大手商社の担当者Hさんとの「メディアアート企画」共同プロジェクトが発足することになったのである。

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表参道にオフィス開設

表参道にオフィス開設

2002年12月、地下鉄表参道駅に程近い南青山に小さなオフィスを構えた。10坪ほどの小さなスペースだけれども、駅から徒歩一分の好立地。かなり背伸びをした場所でのオフィス開設だったが、メインクライアントさんが、渋谷と外苑前だったので間をとって表参道に決め、赤をアクセントカラーに白を基調としたインテリアで、人が集まりやすいサロン的オフィスを目指した。ところが、とりあえずオフィスは開いたものの、常勤してくれる社員がいない…。数人のフリーランスと契約スタッフは、それぞれの持ち場で働いてくれているけれど、表参道オフィスですべき仕事もスタッフもいなかったのだ。

そこで、電話番くらいは必要だろうと、アルバイトをしてくれる人を探しはじめる。大した仕事もなかったので、正直に仕事の内容は「電話番、掃除、ゴミ出し、お茶だし、雑用」であることを強調。それでも知人の知人が、「求職中のとてもいい女性がいるので」と20代半ばのMさんを紹介して下さり、そのままお願いすることに。
美術系の大学を卒業し、出版社で編集者として働いていたMさんは、暫くは午後から出勤し、「電話番、掃除、ゴミ出し、お茶だし、雑用」をしてくれていたのだけれど、とても器用で期待した以上に色んなことが出来ることを発見。その当時はまだ常勤社員を雇う予定はなかったにも関わらず、「彼女を手放してはいけない」と思い、2003年4月から社員という形でお願いすることにした。が、まだ社会保険等も完備していなかったし、待遇も決してよくはない。せめて、彼女がやりたい仕事をさせてあげたいと思い、アート関係の仕事がとれるよう努力していくことにした。

こうして、番組を通じた“デジタルアート”との出会い、フランス人アーチストとの出会い、商社マンHさん、Mさんとの出会いがあって、当初予定外だった「アート関連の企画」が業務内容に加わった。もともと語学を生かした「グローバルな仕事」がしたいとは思っていたけれど、それに加えて「クリエイティブな仕事をしたい」という意識を強く持つようになっていた。

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クリエイティブな人々との出会い

平野啓一郎|時空を翔ける若き作家の肖像

デジタルアートを扱った番組のWebディレクターをさせて頂き、多くのクリエイティブ魂を持った方と出会えたことは、わたしにとってとても大きな財産になったと思う。CMディレクターの中島さん、アーチストの伊藤さん、手塚眞さん、季里さん、土佐さん…。既存の枠を超えた発想を常に持とうとする人たちへのインタビューは、毎回緊張感を伴うものの、自分自身が常にインスパイアされるものでもあった。 ある日、ここで書き溜めたレポートを読んでくださった出版社社長のTさんから、インタビュアーのオファーをいただく。その2日後、作家平野啓一郎氏に京都で取材をすることになったのである。難解な氏の著作を一夜漬けで斜め読みし、いざ本番。緊張感バリバリの2時間。帰りの新幹線で原稿を一気に書き上げ、爽快な充実感を得た。その後も片山右京氏のインタビューをさせていただくなど、インスパイアされるいい経験が続いた。

藤原美智子|all about happiness 自分の色を見つけましょう | ヘアー・メイクアップアーティスト 藤原美智子のこころのパレット

このTさんとは、その後も藤原美智子さんの本を一緒に企画する機会に恵まれた。
もともと「人の話を聞くこと」「書くこと」を仕事にしたいと思っていた私にとって 、貴重なありがたい経験となった。
そして、Tさんがある日突然連れてきてくださったのが、写真家の六田知弘さん。
それがご縁で、彼のオフィシャルサイトを作り、個展を企画し…、と「アーチストのバックアップ」という仕事が、会社の業務内容にさらに加わったのである。

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インプレオ・ギャラリー

インプレオギャラリー

六田さんの個展を表参道オフィスで開催してから約半年後の2004年9月、表参道オフィスをレンタル・ギャラリーに衣替えすることにした。「オフィスの状態でとりあえず始める」ことも考えたが、どうせやるなら出来るだけ本格的にと、ドア周辺にリフォームも入れた。たまたまギャラリー見学に行った目黒のAギャラリーのオーナーが展示用パーティションを無料で譲ってくださり、パーティションに白い壁紙を貼りなおすときには、わざわざ手伝いにきてくださった。また、オープン記念写真展をAギャラリーとの共催という形で実施することができ、賑やかなオープンとなった。それから約2年、2006年10月に閉鎖するまで、約30組の方々にレンタルスペースとして利用いただいた。中でも思い出深いのは、クリ8 さんとの共同企画で行った「ワン展」、「ニャン展」。この個展で、やはりギャラリー経営の醍醐味は「自らの企画・演出」どころにあると実感した。現在ギャラリー経営は休止中だが、また機会があれば、今度は自分たちの方向性をしっかりと打ち出したギャラリー経営をしたいと思っている。単なるスペース貸しでは、借りるほうも貸すほうも、あまり得るものがないということを痛感したのであった。

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プロジェクト@インプレオ

2002年12月に表参道にオフィスを開設してからは、そこを拠点に「クリエィテイブな仕事」の方向性を模索する日々が続いていたものの、会社の基盤となる仕事は、相変わらずテレビ番組のホームページ制作であり、フリーランスのスタッフや契約社員がそれぞれの持ち場で踏ん張り、頑張ってくれていた。要するに稼ぎは、表参道オフィス外のスタッフたちがもたらしてくれていたのである。

メディアート・キッズ

ビットタッチドット展

私ひとり、すぐにはお金にはならないような仕事の周辺をうろうろしていた。折角、商社マンHさんと始めた「メディアアート」企画も、Mさんという強力なスタッフを得たのだから、何とかビジネスの形にしてみたかったし、縁あって知り合った写真家六田知弘さんのプロデュースも推し進めたかったし…。しかし、いずれも豊富な経験、人脈、知恵があるわけでなし…。
そんな中、まずとにかく一歩踏み出すことだけを考えておこなった、「メディアアート」の企画をパッケージで売るという電話営業が功を奏し、2004年8月にはアートガーデンかわさきで、こどものためのメディアアート「ビットタッチドット展」を企画・実施することができた。Mさんがキュレーターとして本領を発揮できる仕事にもなった。

アーチスト・バックアップ

六田知弘 オフィシャルサイト

六田さんのほうも、彼の営業ツールとしてWebギャラリーを制作し、「Webギャラリーオープン記念個展」と銘打って、2004年4月表参道オフィスにて個展を開催することができた。この個展に来てくださった、中国古美術の老舗繭山龍泉堂さんから「お店で個展をしませんか」とご提案いただき、 2005年2月には「雲岡」の写真展を開催。そこへまた、間を取り持ってくださる方が現れて、日本橋三越本店でも2005年5月に「巡礼・日本美」という写真展を開催することができた。こうして、順調に支持してくださる方が現れ、2007年6月~8月には六田さんが撮影した「ロマネスク」の写真が国立西洋美術館でも展示されることになった。また、2008年のJALのカレンダーには六田氏撮影の写真が登場したのである。

スタイルアップ・レッスン

「あなたの再デビュー応援します」というコンセプトのもと、「スタイルアップ・レッスン」というプロジェクトをたちあげた。アナウンサーの白井さん、フードスタイリストの鈴木さんらをスタッフに迎えて、「コミュニケーション力」「セルフプロデュース力」磨きをお手伝いしようというもの。二人とも、フリーランスとしては長いキャリアを持ち、子育てをしながら仕事を続けてきた、先輩キャリアママたち。育児のために一旦専業主婦になった女性が、自分のキャリアを再開することの難しさを私は身を持って体験している。彼女たちの力も借りて、キャリアを再開しようという人たちをバックアップする手立ては何かないものかと、考えたのがはじまりだった。

<フリーランス・ネット>

また、フリーランスの人たちにホームページ、ブローシャ、名刺などをトータルプロデュースで提供したいという思いを形にしようと、「フリーランス・ネット」というプロジェクトを思いつく。フリーランスという働き方は、自由で柔軟な働き方が出来ていい半面、常に孤独で不安定であることもまた事実。志を同じにする、様々な業種のフリーランスの人たちがゆるくつながった、フリーランスのセレクトショップのような形を作ったらどうだろうと考えていた。

これらのプロジェクトは、まだどれも志半ばで、ビジネスとして成立させるのは至難の業。しかし、ライフワークとして取り組めればいいなと思っている。そのためにも、会社の基盤をしっかり築くことが大事だと、つくづく感じるようになった。経済的にも体制的にも、余裕を持ってプロジェクトに取り組めるようにすることが先決だと、方向性を軌道修正しつつあった2004年の秋、また転機が訪れた。

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赤坂オフィス@ミッドタウン前、開設

ミッドタウン 工事中

2004年11月、表参道オフィスをレンタル・ギャラリーに変えた年の秋のある日、私は名古屋時代にお世話になった翻訳会社の女性経営者Kさんと、10年ぶりくらいに偶然再会したのである。それからは10年間の音信不通時代があったとは思えぬほどの勢いで急接近。Kさんの会社の東京進出のお手伝いをすることになり、弊社オフィスの一部をお貸しすることになった。しかし、表参道はギャラリーとしてスタートしたばかり。これを機会に新たなオフィスを開設することにして、赤坂に最適物件を見つけた。
目の前は檜町公園、東京ミッドタウン建設の予定地で、その頃はまだ地ならしの最中。窓から見える景色は決していいものではなく、大型ショベルカーとダンプカー、大量の土の山くらいしか目に入らない状態だったけれど、数年後には「素敵な風景が広がること間違いなし!」と直感し決めたのだ。それから、2年間、50数階建ての建物はニョキニョキとあっという間に立ち上がっていき、まさに私たちは東京ミッドタウンが出来るまでを見続けることになる。
2005年5月に赤坂オフィスがオープンしたものの、しばらくはレンタルオフィスとしてのみの機能で、ここでもまた、仕事もなければ社員もいないという状況に。その頃、私はプロジェクト@インプレオを推進する前に、会社としての基盤をしっかりと築きたいという思いを強く持ち始めていた。「Web制作、翻訳、アート企画と、間口は広いのだけど、何をやっているのかよくわからない会社」のまま終わるのではなく、「専門性を持ちつつ、多様なニーズに対応できる会社」にしたい、という思いが強くあったのだ…。

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2本の柱、「翻訳」と「デザイン」

赤坂オフィス

翻訳業務

インプレオという会社の特色として強調したいのは何だろう、と考えたとき、やはり「クリエイティブな感性」と「グローバルな感性」を生かすことを強みにしていきたいと思った。それらの優れた感性を自分たちが既に持ちえているというよりは、それらの感性を磨けるような仕事をしていきたい、そういう環境に身を置いていきたい、という不遜な希望がある。クリエイティブ面ではMさんが孤軍奮闘しており、新メンバーが加われば、クリエイティブ・セクションとして専門性を確保していけそうであった。しかし、一方では、ローカライズ翻訳と映像翻訳の新しい仕事が始まっており、それに対応する「翻訳」業務のコア・スタッフを確保することが急務になっていた。

「高い英語力」は言うまでもなく、「グローバル」な感性で物事を捉えられる視点を持ち、コミュニケーション力、マネージメント力が優れている人。そんな人材がそう簡単に見つけられるわけはないと知りつつも、小さな会社にとって初期のメンバーはとても重要だと考えていたので、安易な妥協もできず、人探しは難航していた。
そんな折に、たまたま知人の知り合いのAさんという女性が、「インプレオのホームページを見て転職先として興味を持っている」という話を聞き、早速お会いすることに。
Aさんの履歴書を見た段階で、ほぼ採用は決めていたのだが、果たしてこういう人材がこんな小さな会社に入ってくれるのだろうか…という不安のほうが大きかった。

が、Aさんはインプレオの方向性に大いに共感してくれて、入社してくれることになった。そこで私は、長年自分の中で懸案事項だった「社会保険適用事業所」の申請を行うことにした。Mさん、Aさんという強力な布陣を得て、きちんとした正社員を雇える会社にしようと、ようやく覚悟ができてきたのだ。細々と自分の仕事が確保できればいい代わりに、大きなリスクはとらない、という当初の思いとは違って、正社員を雇用して、その雇用が継続できるようなきちんとした待遇ができるよう、会社のインフラを整えていかなければ、という思いが強くなっていたからだ。
この頃は、自分にとっても会社にとっても大きな転機だったと思う。2005年11月、Aさんの入社を機に、有限会社インプレオは社会保険適用事業所になった。会社にとっての負担は大きくなるけど、やっと会社らしい会社になれた気がして、殊の外うれしく、記念にと自分自身に指輪を買ってしまった…。

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クリエイティブ&リンガル セクション

赤坂オフィス

それから、暫くして、表参道のギャラリーを守りながら、デザイン業務をこなしていたMさんも赤坂に移り、赤坂オフィスが拠点となってきた。赤坂に本社機能を移した2005年10月から、2007年7月に富ヶ谷へ移るまでの約2年間は、会社の基盤となる業務を、Web・ DTP制作などのデザインワークを行うクリエイティブ・セクションと、翻訳、英語版制作などを扱うリンガル・セクションの二本柱にすえて、より専門性を高めることに注力していった。この間、Rさん、Sさんが入社し、クリエイティブ・セクションがパワーアップ。この二人も弊社の契約社員として、以前からホームページ制作に関わっているTさんが、彼女が講師を務める専門学校の卒業生の中から「人物・能力共に優秀」という女性たちをヘッドハンティングしてきてくれたのだった。

また、リンガル・セクションでも業務量が増え、体制強化が必須の状況の中、なかなかいい人材に巡りあえずにいた。2007年7月、富ヶ谷オフィスに移る直前に「ユニークで優秀な女性がいるから」「特に意味はないけど、成子さんに会わせたいと思って」と知人がMさんを連れてきてくれた。人材を探しているという話をしていたわけではなかったのだけど、「高い語学力と、コミュニケーション能力、それから語学のみならず、他のプロジェクトなどにも興味を持ってくれるマルチな人」がどこかにいないかと、必死に探しているところだった。そこにMさんが突然登場、晴れてリンガル・セクションの一員になってくれた。

2007年10月現在の正社員5名は、実は皆、誰かが「インプレオに合うと思って」「ちょっと会わせたいと思って」と連れてきてくれた人たちである。本当にありがたいことに、仕事も転機も、社員さえも、誰かがそれとなくいいタイミングでもたらしてくれる…、嘘のようだけれど本当にそんな風にしてここまで来られたのである。

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主婦たちのキャリア再構築

会社設立動機のひとつに、潜在的戦力主婦たちとワークシェアしたい、という思いがあった。最近になって「ワークライフ・バランス」という考え方が注目されるようになってきたが、まだまだ既存の形態を変えていこうとするときには、「内なる壁」も「外なる壁」も大きく立ちはだかっているように思う。

会社設立当初は、子育て中の主婦が在宅でできる仕事をワークシェアしつつ、少しずつ、彼女たちに外で働く機会を増やしてもらい、企画やコーディネートといった、よりクリエイティブな仕事をしてもらえるようにしていった。非常に優秀な子育て中ママたちが活躍してくれた。Oさん、Tさん…、本当に信頼してお任せすることができた。家庭と仕事を両立させるために、女性たちは様々な工夫を試みる。効率的な家事の進め方、緊急時の子どもへの対応、周囲の人たちから理解と協力をいかに得るか、時間と人を上手に使う、優れたマネージメント力と柔軟性なくしては成り立たない。現在も、数人の主婦が契約社員、アルバイトとしてインプレオの貴重な戦力になってくれている。

私はキャリア志向のある主婦たちはどんどん社会に復帰すべきだと思っている。当然ながら、専業主婦を選ぶ人はそれもいいと思う。専業主婦でもキャリア主婦でも、女性たちが自らの意思で選びとって欲しいと思うのだ。「主婦」という存在は会社や社会にとってあまり重要視されるものではないかもしれない。では「主婦」とは何か。主婦とは、たとえば「夫の健康を考え、子どもの受験の心配をし、晩御飯のメニューを考え、義父の誕生日プレゼントを用意し、家の雨漏りの修理の手配をし…」と、毎日自分以外の人の世話や心配やらに追われ、うまく帳尻を合わせて日々の生活が滞りなく過ごせるようにする人々。自分の周囲の人たちのことに始終気を配り、様々なフェーズの問題を解決していく人々。実はこういう「大人の主婦」的な働きをする人が必要だなと、思う局面が社会や会社の中でも少なくない。「自分の仕事以外には関心を示さず」「周囲の人が困っていても手を差し伸べず」、「ちょっと想像力を働かせて相手の立場に立って考えればわかることを、わかろうとしない」人たちが、小さな問題を大きくして、効率的な仕事の妨げをしている場面に遭遇することも少なくない。様々な分野で仕事の専門化が進んでいるけれど、専門性だけでは成り立たず、それらをつなぐ調整力、交渉力があって初めて専門性は生かされるのだと思う。
自分のプライドや損得を抑えて行動できる「主婦」感覚の人がいて、「はいはい」と大きな子どもたちをなだめて物事をスムーズに進めてくれる潤滑油になってくれるといいのにな、と思うことがある。そういう「大人主婦」にはどんどん社会や会社に戻ってきて欲しいと思うし、社会や会社はそういう「大人主婦」的な存在の大切さに気づいて、戦力化していくべきだと思う。

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「人材派遣業」への思い

富ヶ谷オフィス

男女雇用機会均等法が施行された1986年、労働者派遣法も施行された。私は翌年、大学を卒業し就職、人事部に配属された。雇用機会均等法にちなみ、それまで実績のなかった総合職女性を労務・人事部門に配属する、という労使間交渉の末の、人事部配属だったことを入社後に知った。女性が働くことの周辺に注目が集まり始めた時期だった。
パソコンはまだ一般的ではなかったけれど、ワープロが一気に普及し、どの職場でも文書作成にワープロが大活躍し始めた時期であり、機器操作に不慣れな人たちに代わって、文書作成をしてくれる専門のワープロ要員がどの職場にも外部から派遣されるようになっていた。まだ大手の派遣会社数社の名前しか聞こえてこない時期だったが、私はこの派遣という働き方に非常に興味を持った。派遣業種も専門性のあるものに限られていたので、ある意味、「専門性の確立」のために派遣という働き方は有効だと考えたのと、女性たちがライフスタイルに合わせて短時間勤務をしたい場合の選択肢が増えることにつながるだろうと思ったからだ。当初は派遣社員=女性、という認識が一般的だったと思う。しかし、私自身が働く職場から遠ざかっている間に、派遣業種は広がり、男性の派遣社員や日雇い派遣という言葉も出現するようになった。人材派遣業者も格段に増え、派遣という働き方を取り巻く環境は必ずしても良いとは言えない昨今。では、なぜあえて「人材派遣業」の認可業者になったのか?それは20年前に、私が派遣という働き方に感じたポジティブな側面だけを生かした「派遣業」をしたいと思ったからである。

「専門性の確立」と「ライフワークバランスの実現」、働くものたちが「派遣」という働き方を通して得られるメリットに着目した「派遣」をサポートしたい。理想論かもしれないけれど、そんな人材派遣業を確立できればいいなと思っている。市場が大きくなるにつれて、企業利益が先行するようになってきた感があるけれど、まずは派遣で働く人がハッピーであること、そうあることが派遣する側にも、派遣を受け入れる側にも、結果的には最大のメリットをもたらすのだろうと思う。

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有限会社インプレオから株式会社インプレオへ

2007年9月10日、株式会社インプレオを新組織として設立した。約6年前に有限会社インプレオを設立した時、私の一番の関心事は「子育て期の理想的な働き方の追求」であり、設立の目的は「自分がやりたい仕事を自分のペースで確保」「同様な立場の人たちとのワーキングシェア」といった、非常に私的でかつ現状維持を目指したものだった。しかし、仕事を通じて、当初自分が考えていた以上に様々な素晴らしい経験を得、また、いいお客様、社員、スタッフとの出会いに恵まれ、当初の私の目的をはるかに超えて、「有限会社インプレオ」はいい企業体に成長できる途上にあると実感している。きわめて「私的」企業の色合いが強かった「有限会社インプレオ」の枠を超え、「やる気のある社員たちがいい成長を続けられる場」として、そして「信頼を寄せてくださるお客様にさらに良い仕事を提供する企業体」として、しっかりした体制を築いていく必要性を感じるようになった。 そんな思いから、新たな志を持って、「株式会社インプレオ」を設立することにした。「有限会社インプレオ」が認可事業者になっている人材派遣の業務を除く、全ての業務と体制を引き継いでいく。

また、2007年夏、拠点を代々木公園に移した。南馬込の自宅一室でSOHOとして始めた会社も、少しずつだけれど規模も大きくなり、拠点を表参道、赤坂とお洒落な街に移してきた。しかし、今原点に立ち戻り、私が社会人としての第一歩を踏み出した場所、その近くに拠点を構えた。20年前、眼下に青々とした代々木の杜を見下ろしながら、そこで悩み考えた時間と、多くの素晴らしい先輩たちから学んだことが、今も仕事をしていく上での私のベースになっている。初心忘れず、同じ代々木の杜を日々仰ぎ見ながら、「いい仲間たちといい仕事をする会社」を作り上げていきたいと思う。(2007年初秋、記す)

インプレオ代表 加藤成子

第二章へつづく

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