HOME > インプレオって
2007年7月、私がオフィス移転を思い立ってから1ヶ月もしないうちに、移転決行となった。NHKに打ち合わせで出かけたときに、ふと立ち寄った不動産屋で一番最初に紹介された物件。家賃は、相当な予算オーバー。最初は「この金額はありえない」と内心思いながら、「一応見るだけ・・・」と不動産屋さんの後を追う。3階建ての3階。南東向きで広さも十分。静かな環境。NHK村やスタジオにも近い。相当心が動いたが、相当な予算オーバーだったので、とりあえず「また来ます」とだけ言い残す。赤坂への戻り道、「あの素敵なオフィスで始まるであろう、新たなインプレオ」を思い描く。「社員はどう思うかな。気に入ってくれるかな・・・」と。とにかく皆に見てもらおうと思い、「オフィス移転計画」を打ち明ける。本当は驚いたであろうが、大物揃いなのか、皆大して驚きも見せず、とりあえずは「見に行く」という。数日後、赤坂から見学隊が行く。「うわー、いいですね」「すごい」「さすが、せいこさん」と口々に歓声をあげた。「ヨッシャ」最後の一言で決めた。
実は10万近い予算オーバーだったのだ。でも、10万円分頑張ればいいんだ、と腹を決めた。 こうして、私たちは、NHKから徒歩5分ほどの、とても静かで瀟洒なマンションに居を構えることができた。この時の私は、今後数年間はNHKや利用スタジオに近いオフィスという利点を生かして、映像翻訳を本格的に社業の柱に育てよう、と強い思いを抱いていた。
間口を広くして、色んなことをやってきたインプレオだったけれど、社員が3人、4人と増えるにつれて、社業の土台となるものが欲しいと強く感じていた。「何をする会社ですか?」と聞かれたときに、「こんなこともあんなことも、何でも色々やってます」ではなく、「業務の柱としてはこうですが、そのほかにこういうプロジェクトなどもやっています」というような、わかりやすい構図にしたい、と思っていた。 赤坂時代に、デザイナー要員が2名入社して、デザイン部門が3名になっていたが、翻訳部門は社員1名と私でギリギリ回している状態だった。まずは、デザインと翻訳を同規模の同パワーにしようと考え、富ヶ谷移転に伴い、翻訳部門の社員増員を図った。
こうして、富ヶ谷移転から数ヵ月後の2007年10月にMさんが、2007年12月にOさんが入社した。デザイナー2名のときもそうだったけど、社員を増やすときには、2名同時期にという、かなり大胆な増員配置をしてきている。直感的なものもあるが、2名体制よりも3名体制のほうが、色んな意味で安定感があるという思いがある。こうして、富ヶ谷移転から数ヶ月して、クリエィティブセクション3名、リンガルセクション3名となり、デザイン制作と映像翻訳の2本柱確立を目指す体制が出来た。
私はフリーランス時代から、翻訳には細々と関わりながら、特に専門も決めず、メディカルから自動車マニュアルまで何でも依頼されるままにやってきていた。しかし、会社としては、何らかの専門分野を確立した方が最終的にはプロの仕事を極めることができ、かつ、生き残れるだろうと思っていた。 初めてNHK関連の映像翻訳をやらせていただいたのが、2005年。「21世紀の潮流」という素晴らしいドキュメンタリーの字幕翻訳が初仕事だった。アフリカの大虐殺を描いたこの番組は涙なくして見られず、翻訳を進めながらも、自分の無知さを恥じずにはいられなかった。こういう良質なコンテンツに触れながら仕事をできるとは、責任も大きいけれど、なんという幸福なことだろう。できるならば、こういう優れたコンテンツに翻訳という部分で関わっていきたい、それまで翻訳の専門分野を決めかねていた私のベクトルが決まった瞬間だった。
翻訳担当の最初の社員だったAさんも、翻訳業界経験者だったので、薄利多売の厳しい現実を承知していた。ローカライズ翻訳の大変さも経験済みだったため、その方向に向かうことには消極的だった。ならば、映像翻訳は?と問うと、興味を示してくれた。幸いにも彼女はSE経験もあり、PC操作に滅法強く、スタジオ関連業務にも抵抗感がなさそうだった。とはいえ、恐らく最初は、いきなり現場に放り込まれ、相当びっくりだったに違いない。が、あっという間に慣れてくれた。
実は私は、名古屋の翻訳会社時代に、プロモーション・ビデオの多言語版制作は結構経験済みだった。T自動車のクレーム処理マニュアルドラマを5~6人の英語ネィティブを使って吹替えをする、とか、ある企業のPVをイタリア語版、ポルトガル語版で制作するとか、外国人が少ない名古屋の地で、英字新聞にナレーター募集広告を出して、人を集めながら、見よう見まねでやっていたので、Aさんなら度胸さえ据われば、何とかなるだろうと思っていた。 幸いにも、親切にノウハウを伝授してくださる方々が次々と現れ、彼女は英語版制作ディレクターとしての技量をあげていった。この頃、複数のクライアントさんとお付き合いさせていただき、痛感したのが、「プロの多言語版制作ディレクターとして、翻訳のみならず、スタジオでのMA収録から編集までこなせる人は少ない」ということだった。ならば、そこにわが社の行くべき道があるだろう、と感じた。
そこから、新たに入社した2名のリンガルセクションの社員には、単なる「翻訳コーディネータ」ではなく「語版制作ディレクター」として日々の仕事をするようにと自覚を促した。社内に3名の「語版制作ディレクター」を抱えれば、映像翻訳会社としての強みも出てくるだろうと思われた。単純な映像翻訳ではなく、最終的には「ディレクターの目を通した」翻訳が仕上がるのである。それはディレクター自身が何度もスタジオでのMAや編集に立ち会いながら、ノウハウを蓄積していくものなので、簡単に身につくものではなく、それだからこそ、価値があるとも思われた。
こうして、2005年には年間数十本だった案件数が、2009年には年間200本近い件数を任せていただけるようになった。
映像翻訳に力を入れて驀進していた頃、ゲストが多数登場するスタジオ収録番組の英語版制作の話が舞い込んできた。英語の声優が10人近く必要だが、低予算だという。日本で英語のナレーターおよび声優を手配すると、それだけで相当な金額になってしまう。その上、普段ナレーションをお願いしている方々は声優とは違って、吹替えやリップシンクに慣れているわけではない。吹替えに慣れた巧みなディレクターでなければ、収録に時間がかかりすぎて、スタジオ料金だけでも、相当な金額がかかってしまう…等々、日本で低予算で高品質のものを制作するのは難しいと思われた。かといって、海外のプロダクションにコネがあるわけでもなく…。 しかし、難しい案件だからこそチャンス!とも思われた。こういう案件も上手くこなせるようになれば、守備範囲が広がるだろう。イギリスやアメリカには優秀な声優やナレーターが多くいるだろう、が、なんといっても遠すぎる。場合によっては収録には自分たちも立ち会いたい…とすると旅費と時間が余分にかかる…。
そこで、香港に的を絞り、電話とメールだけでビジネスパートナー探しに奮闘した2008年の夏。何のコネも情報もないところから、「はじめまして・・」と地道に国際電話とメールでのやりとりに精を出した。こういう何もないところから始めることに私は意外に抵抗感がない。そもそも、会社だって何もないところから始めたのだから。そして、運よく最良のパートナーに巡り会えた。
2008年の12月に初めて香港収録を決行。それからも何度も一緒に仕事をしてきている。インプレオの台本フォーマット、インプレオのこだわり、等々こちらの要望を丁寧に何度も伝え、理解してもらいながら、「一緒にいい作品を作っていく」という思いを共有してもらっている。彼らとの出会いが、リンガルセクションの躍進に拍車をかけた、ともいえる。
2008年は年末ギリギリまで多数の映像翻訳案件を抱えて、初めての海外出張も経験しながら、バタバタと過ごしていたが、2009年の2月には六田さんの個展を計画していた。 2007年の夏に六田さんは国立西洋美術館にて「祈りの中世-ロマネスク美術写真展」という個展を開催していた。2008年には「祈りの道 サンティアゴ巡礼の道と熊野古道」という写真展を国内数箇所で開催するなど、「日本美」「雲岡」「ロマネスク」「サンティアゴ」と広い地域をカバーするテーマで個展を展開していた。次は、六田さんの真骨頂である「シトー」を見せようということになり、京橋の繭山龍泉堂さんが主催で、「シトーの光」展を開催してくださることになった。
繭山さんが前面に立って仕切ってくださるということで、インプレオの役割は裏方マネージメントでよかったのだが、それでもギリギリまで、クリセクスタッフ総出で、DM作成、カタログ制作、WEBショップ制作等々にあたった。ここでもクリセクスタッフ3人ともデザイン制作が出来て、IT系に強いという強みが大いに発揮された。
六田さんの個展も大成功を収めた。リーマンショックのあとにも関わらず、写真の販売は過去最高の売上を記録した。大変高名な画家の奥様がいらっしゃって、4点まとめてお買い上げくださったりした。繭山さんのお得意さま達が喜んで買ってくださったのだ。
2009年の冬は、そうやって瞬く間に過ぎた。
六田さんの個展が終わり、後処理も一段落した頃、次にやらねばならぬ仕事は、元NHKアナウンサーの松平さんの会社の手伝いだった。縁あって、弊社がオフィス・マツダイラの業務のお手伝いを一部させていただいていた関係で、私は数ヶ月の間あれやこれやと奔走することになった。その中のひとつに、オフィスの物件探しがあった。どうせなら、インプレオの近くにいかがでしょう?と、私がお世話になった不動産屋に話を聞いてみると、我々のオフィスと同じマンションのもう一つの棟に空きがあるという。小道をはさんだ向かい側にあるマンションで、立地的には申し分ないと思われた。 松平夫妻と一緒に見に行くと、「ちょっと広すぎる」という。松平さんなら、これくらいの広さのオフィスでも誰も不思議に思わないだろうと思われたが、あくまでも謙虚、質実なお方なのだ。確かに、松平さんは打ち合わせが必要とあらば、自らどこへでもお出かけになる。フットワークが超軽いのである。広い打ち合わせスペースは不要だったのかもしれない。 「ミイラがミイラとりになる」というのはこういうことを言うのであろうか。松平さんに、と思って紹介していただいた、その部屋を結局私は自分が借りることに決めてしまった。
正直、こういう展開になるとは予想していなかった。ただ、2年前に移転したときには、一部屋丸々打ち合わせ室に使えていたのだが、あっという間に人数が増え、打ち合わせ室を潰してクリセクチームの部屋にしていた。そのため、来客や打ち合わせがあっても、狭い私の部屋を使わざる得なく、皆が窮屈な思いをしていた。何とかしなければと思いつつも、この富ヶ谷の場所はとても気に入っていたし、マンションタイプで事務所使用可の物件は稀少である事実も知っていたので、身動きとれずにいたのだ。 そこにたまたま飛び込んできたのが、向かい側の棟の一部屋。3部屋が西向きの窓際に並んでおり、間取りも使いやすそうだった。打ち合わせ室一部屋あればいいのに、3部屋もあってどうすんの?私の方こそ、「広すぎる」と尻込みするのが普通でしょ?と自問自答しながらも、この地を離れる気はなく、かつ、マンションタイプにこだわり、環境の良さを求めるのであれば、他に良き選択肢はないように思われた。 そして、GWの連休前、私は決めた。う~ん、又しても予算オーバー。いや、その分、頑張ればいい、と自分に言い聞かせながら。
打ち合わせ室用の部屋、という目的ははっきりしていたけど、どんな備品を揃えて、どんな雰囲気にしようか、はっきりイメージできていたわけではなかった。ただ、インプレオ・ウエストと同じテイストにはしたくなかった。あちらはあちらで、アスクル等を駆使して、低予算ながらもテイストにはこだわりながら慎重に備品を揃えてきたつもりである。それでも、パソコンは20台近くになり、プリンターも大小合わせて4~5台と、完璧なオフィス仕様ではある。 たまたま、松平夫人とオフィス・マツダイラの備品調達に奔走していた時、夫人を私の知り合いが働くアンティークショップにご案内した。そこでもまた、私は運命の一品に出会ってしまった。オフィス・マツダイラの事務所をあれやこれやと構想しながら、私の頭の中ではインプレオ・イーストの構想も動き出していたのだ。マツダイラご夫妻にアンティークを勧めながら、結局は自分が「アナログ・アンティーク」構想にはまってしまったのだった。打ち合わせ室は、「出会う場所、話し合う場所、考える場所、創り出す場所」にしたかった。そして、そこからまた新たなインプレオの業務が生み出されてくればいいなと思っていた。
2年前に赤坂から富ヶ谷に移転した時の私の決意は、インプレオの社業の柱を確立することだった。この2年の間に、翻訳チームは年間200本の映像翻訳をこなすまでにはなったし、デザインチームもHP制作、カタログ制作、映像編集・・・と業務の幅を広げながら、着実に仕事を得てきた。何よりも社員が自律的に動き出していた。そろそろ、新しいことを始めてもいいかな・・・、と思い始めた頃と、ちょうど時期を同じくしての打ち合わせ室構想だったのだ。そして、たまたまのインプレオ・イーストとの巡り合わせは、松平さんが運んできてくれたのかもしれない。
人が集まるスペースが欲しいと強く思い始めていた理由のもう一つが、NHK周辺で働く仲間たちが増えてきたことでもあった。その頃、ウエストには翻訳とデザインチームのスタッフが全部で8名(時に臨時スタッフが加わり、9名)いたが、インプレオ所属のスタッフとしてNHK周辺で働く仲間たちも、同じくらいの人数に達していた。ディレクターが3名、デスクが1名、庶務関連が2名、編集が1名、著作権関連が1名と合計で8名が派遣または業務委託という形態で働いてくれていた。彼らにも、自分が所属する会社としてインプレオに愛着を持って欲しいと思っていたし、彼らの居場所も作りたい、と思っていたのだ。 そういう意味でも、スペースの拡大をするいいタイミングだったと思う。が、それぞれに自分の職場を持ち、それぞれのペースで仕事をしているスタッフ全員が一堂に会することは結構難しい。それでも「スタッフ・ミーティング」を定期的に月一回ペースで開催することを目標にしている。ランチタイムとディナータイムを隔月に開催して、皆でご飯を食べるだけなのだけど。
イーストは「アナログ&アンティーク」というコンセプトのもと、調度品はほとんど独断と偏見のもと、私が勝手に選んだ。5月の週末は都内のアンティークショップを回り、インターネットで検索しまくり、低予算ながら自分のテイストに合致するものを慎重に選んでいった。私の趣味と実益に合致するものではあったけど、休日を潰しての調度品探しは疲労困憊でもあった。何よりも、一人でそーっと進めていたことでもあったから、実は社員の反応がどうなのか、ビクビク、ドキドキしていた。「絶対素敵な部屋になる!」と念じながら。 作業場所としての機能を求めないのなら、「ユニークであること」「何か話題のタネになること」「面白い発想だと思ってもらうこと」等々を軸にしたいと思った。営業スタッフを持たない我が社にとっての、重要な営業ツールでもあると考えた。どういう会社として存在したいか、どういう会社としてアピールしたいか、という表現の場でもあると捉えた。 イーストが出来てから、狭い社長室兼打ち合わせ室時代には自粛していた(?)「新たな人との出会い」や「新たなビジネスが生まれそうな打ち合わせ」を積極的に展開し始めた。「そろそろインプレオだからこそ出来る“第3の業務”を組み立て始めてもいいかもしれない」、そんな思いを秘かに抱き始めながら。
インプレオ代表 加藤成子
「第三章へつづく(予定)」